[memo][res] 勝手に「自由」解釈(3.2)
玄兎 2008.8.06 (水曜日)
帰省中だってネットカフェから入ればいいじゃない。
……という心底ダメ人間な行動によってレス。
我ながら何をやっているのかと。
「誘導」定義について
「誘導」についての問題は、鏡氏の「「自由」と「管理」、各々での「誘導」」とxenoth氏の「管理の諸形態」から明確になったと思います。[*1]
ということで、僕は僕のヘッポコ道をゆくのであります。
前エントリ[*2] で書いた定義文に、SIMON氏からいただいたコメントで、僕の解釈にまた穴が見つかりました(笑)
ご指摘、改めて感謝します。
今回はコメントへの返答という形から、「自由」な遊びに迫ってみたいと思います。
(なお、引用元について言及されていないものは、全て前エントリ「勝手に「自由」解釈(3.1)」のものです)
「自由」の中の他人への配慮
- 「自由」(玄兎解釈A) : PC を自由意志を持つ存在とし、PC は自身の行動原理に基いてのみ行動する。この行動原理にはメタゲームの要素を含めない。
- 「自由」(玄兎解釈B) : PC の〈意思決定〉の判断材料が、全てゲーム世界の中にあること。
この解釈だとxenothさんのおっしゃられるように、「他のプレイヤーやGMが楽しめる/楽しめない」を考慮する行為は「自由」なプレイングではありえない
(これを考慮して、PCに適当に言い分けさせて配慮するも不可)になってしまうんじゃあないでしょうか?
「自由」論は元来、プレイヤーが「自由」なのであって、PC が「自由」という話ではないんですが、「ゲームマスターが PC の行動を管理[*3] できない」という意味で「PC に自由意志がある」と考えると分かりやすいかと思った次第です。
が、なるほど。僕の定義文だと他の参加者に配慮しちゃイカンことになりますね。
元の、鏡氏の定義文だと、配慮するか否かについては一切の指針を持っていないのに。
これは僕のミスです。申し訳ない。
鏡氏の主張についての相違
鏡さんは(このBLOGで鏡さんの話題も筋違いですが)「最近は管理型が主流だけど、自由なTRPGもいいものだよ」と主張したいのが根幹にあっていまのこの話題を論じられているわけですが、そこですなわち「ハンドアウトとシーンプロセッションを使えば(問答無用で)管理」という結論は、いささか啓蒙には向かない気がするんですよね。
この件に関しては、ちょっと見解を異にしていて。
僕は鏡氏のアプローチを「管理技術を使わない遊び方(または「管理を受け入れない遊び方」)でも TRPG は楽しく遊べるよ」と主張したいのだろうと考えています。なので上記の判定基準については、氏の主張からは逸脱したものではないと思ってます。
それから、シーンについては語の範囲が広すぎるので、全てが「管理」分類にはならないと考えます。(シーンプロセッションって、これフェイズプロセッションのことですよね?)
二種類のシーンと「管理」判定
いただいたコメントの中でちょっと前後しますが、
正直な話、「ハンドアウトとシーンプロセッション」が管理なら、「君たちが酒場にいると」で切り出すプレイは「管理=自由でない」となり、じゃあ本当に自由なTRPGをやるためにはPCが(キャラメイクが済んだ、ではなく、字義通りの)生まれた時点からプレイを始めねばならなくなると思うんですよ。
この問題については「シーン」という語の広さが影響していると考えています。
一口に「シーン」と言っても、実際には「環境としてのシーン」と、「物語の要点としてのシーン」とがあります。
「環境としてのシーン」とは、主に空間的な距離や、時間的な流れによって区切るものです。たとえば早朝に村を出発し、昼過ぎに洞窟へと到着した場合、「村のシーン」から「洞窟のシーン」へ、あるいは「早朝のシーン」から「昼過ぎのシーン」といった具合に区分します。
対する「物語の要点としてのシーン」とは、物語の中での意味やシナリオで定められた予定によって区切るものです。たとえば「宿敵を倒すと決意するシーン」とか「情報を集めるシーン」とか、あるいは「A が B に会いにいくシーン」とか「A が襲撃されるシーン」といった具合です。
フェイズプロセッションは後者、「物語の要点としてのシーン」を運用するためのルールと考えられます。(『アリアンロッドRPG 上級ルールブック』 [p.79-83] 参照)
前者は、ただ環境によって区切っているだけで、その中でキャラクターが何をするのかについては言及されていません。こうしたシーン区分については、それだけでは「管理」とは言えません。
対する後者は、物語の中でキャラクターがどのように行動するのかについて決められています。プレイヤーに「これに従って行動せよ」、というのは「管理」判定になります。
もっとも、プレイヤーがそれに反して行動し、ゲームマスターがそれを容認するのであれば、それは「管理」の失敗であり結果として「管理」されていない、「自由」なプレイングだと考えられます。たとえば「情報を集めるシーン」と設定されているシーンで「さっさと倒しに行こうぜ」と情報を集めないまま敵陣に突っ込んでいくのは、ゲームマスターの「管理」から逸脱しています。そこで過剰に「誘導」して「情報を集めさせる」のが「管理」マスタリング、敵陣への特攻を認めるのが「自由」マスタリングということだと思います。
引用した「君たちが酒場にいると」で切り出すプレイについては、それだけでは前者、「環境としてのシーン」分類です。ですからこれは「管理」判定にはならないと考えられます。
そこで例えば「あ、GM。俺は自分の家で寝てる」とプレイヤーが宣言し、ゲームマスターがこれを拒否して「酒場にいたんだよ」と強制したのなら、それは「管理」になりえますが。
そうでないなら、それは「自由」下における「誘導」だと思われます。
天羅万象の例
個人的には(ハンドウアウト・シーンプロセッション・推奨アーキタイプありありでも)天羅万象シリーズは(いわゆる自由度を認めれば)すごく自由っぽくプレイすることが出来ると思うんです。(敵役NPCの主張に共感してパーティーアタックを認めてみたり、PC同士で主義主張ガチガチぶつけあったりしてみたり、など)
(もちろん、GMが「修羅は説得できないから黙って戦え」とかぶっちゃけるセッション運営はこの例に含めませんけど)
たとえハンドアウトを配られようと、ハンドアウトを自由に料理して自由にプレイする「自由なプレイ」はありえるべきだと思います。
天羅は無印をちょっと遊んだだけなんで、個々のメタゲーム技術がどう機能しているのか正確なところは分かりません。以下はその上での話になります。
ハンドアウトにせよフェイズプロセッションにせよ、ゲームマスターが予定しているシナリオの範疇内で動かすために使用するのであれば「管理」判定になると思います。
ただし、たとえばハンドアウトは単なる叩き台で、その後どう弄っても、たとえ原型を留めないまでに改変されたとしてもゲームマスターが関与しないっていうのであれば、それは「誘導」であっても「管理」にはならないと考えられます。
そこで「ここは変更禁止」とかやっちゃうと NG ですが。
メタ視点は無視できない
プレイヤーの「俺たちはゲームがしたくてこのテーブルに集っているんだ」ってメタ視線を取り除いてPCに「冒険を続ける」って意志決定をさせ続けるのは、実際は意外と困難じゃないでしょうか…実際問題…。
ああ、これはありえる問題だ。僕の解釈の穴です。
「メタゲーム」というより、「予定されたシナリオの都合に合わせる」とか「ゲームの都合を考える」とかにした方が良さそうですね。
私見を述べれば、「ゲームをしたくて集まった」のならプレイヤーは最初――キャラクター作成時やセッション開始時――に PC に「ゲームに参加しやすい行動原理」を付与すべきだと思います。ただし「それがどのような行動原理なのか、どのような理由でそうなったのか」ということはプレイヤー自身が決めることで、他人がとやかく言うことではない、というのが「自由」のスタンスでしょう。
「自分が面白いと思うこと」に関するメソッドは自分で構築、実践する。代わりにそれが生じせしめた結果についての責任も自分が負う。それが「自由」――自らを由とする――ということではないかと思います。
プレイヤーの事情を考慮する
>「自由」(玄兎解釈B) : PC の〈意思決定〉の判断材料が、全てゲーム世界の中にあること。
(リアルで解散時間が近づいてきたし)「ここら辺でキャンプを張って、続きは次回にしようか」
…(いままで自由なプレイを続けてきたとしても)これだけで「自由なプレイ」は失われてしまうのでしょうか?
うーん、確かに。
鏡氏の「自由」な遊びには抵触しないんだけど、僕の解釈Bには抵触しますね、これ。[*4]
穴だよなぁ。やっぱり直感だけじゃカバーしきれないか。
……こうして見ると、残ってる穴は僕の定義文のミスだけだ。
ちゃんと構築しなおさないと(汗)
一回まとめたい
これまで迷走してきた「勝手に「自由」解釈」ですが、一連の流れで大筋については見えてきた気がします。(錯覚かもしれませんが)
そこで次回、これまでウチで交わされた話を僕なりに再構築してみようかと。
どこまで勝手にやるつもりだよ自分、と思わんでもないんですが、まあ生温く見守っていただければ幸いです。
(鏡氏には、心の底からゴメンナサイ)
- [xenoth氏の「管理の諸形態」] = xenoth氏のエントリは、「誘導」技術の具体例と、適切な運用案について言及されている名エントリです。自身でゲームマスターをされる方には特にオススメ。 [↩]
- エントリ「勝手に「自由」解釈(3.1)」 [↩]
- [管理] = コントロール [↩]
- [鏡氏の「自由」な遊びには抵触しない] = 終了のタイミングについては「自由なダンジョンを遊び終える – 卓上RPGを考える」で明示されている。この「リアルで解散時間が近づいてきたし」というのは「1.時間切れ」に該当する。 [↩]
帰省中にもかかわらずご丁寧な回答ありがとう御座います。
なんかいささか申し訳ない気もしますが(汗)
>フェイズプロセッション
申し訳ないです。たぶんソレだと思います。いわゆる、「じゃあ次は○○するシーン」って奴です。
自分が言いたかったのは、いわゆるマスターの「じゃあ○○するシーンね」の前に、PL側から「ちょっとまって、その前に××が△△するシーンを入れさせて」みたいな展開とか、PLの宣言を受けての『「てことで○○したいんだけど」「じゃあ○○するシーンね」』もあるので、これだけで『管理』ってのに違和感を感じたんです。
>天羅
これって、運用の例なんで、あえて具体名を出したのは違和感がありますよね。申し訳ないです。
スタート地点は管理されていても、ゴール地点を定めないような運用のつもりだったんです。
仰ってくださったように、『たとえ原型を留めないまでに改変されたとしてもゲームマスターが関与しない』なら管理でないで納得です。
ただし、(そのPLだけでなく、他のPLや)GMも楽しめるプレイを考えれば、PLサイドでも『原型を留めないほど』の改編は自粛すべきだと思うんです。
> そこで例えば「あ、GM。俺は自分の家で寝てる」とプレイヤーが宣言し、(後略)
>(前略) PC に「ゲームに参加しやすい行動原理」を付与すべき(後略)
私も全く同感です。同感なのですが、(その宣言によって『みんなが』面白くならない限り)前者の宣言は(みんなで楽しむためには)しない「べき」ですし、後者も全くそうする「べき」だと思います。
でも、この「べき」は、自由なプレイに際しては持ち込むべきではないとも思うんです。
結局のところ、『自由なプレイにおける、みんなで楽しむために放棄すべき(したほうがいい)自由』の扱いが、自由を自由でなくすかどうかが、(疑問、というか、ふにおちない・ひっかかる)ネックになるんです。(個人的には)
(もちろんこれをGM(他人)に言われて(止むを得ず)放棄するなら管理だと思います。でも、自発的に、あるいは他人に言われても納得して放棄するは自由か管理か?)
それとも、皆が楽しくなくなるようなアプローチを行なうPL(たち)のPC(たち)に対しても、なんとか自分が楽しめるように働きかけるのが自由なプレイに伴う『責任』なんでしょうか…?
(「じゃあウチのPCは家で寝ている○○(と△△と××)の部屋に押しかけ、皆の布団をひん捲ります」とか…。
それでそのPL(たち)がレスポンス返してくれれば、挽回はできるかもしれませんが…)
PS
> 鏡氏の「自由」な遊びには抵触しないんだけど、僕の解釈Bには抵触しますね、これ。
揚げ足取りでゴメンナサイ!!
ホント、嫌な解釈だって自覚はあるんですよ・・・
@SIMONさん
いつもコメントありがとうございます。
いやまあ帰省先でヒマぶっこいてたダケなので、お気になさらず。
やることなくて原稿用紙を文字で埋めまくってるような中毒者なので(笑)
*フェイズプロセッション
> マスターの「じゃあ○○するシーンね」の前に、PL側から(後略)
なるほど、これは考えてなかったです。
ちょっとヤヤコシイ問題になりますね。えーと……
このプレイヤーの行動それ自体は「管理」判定にはならないと考えられます。宣言次第な部分もあるんですが、「ちょっとまって、その前に××が△△するシーンを入れさせて」の××が PC で、△△が行動であるなら、それは単なる行動宣言をフェイズプロセッションの形に合わせただけなので、特に「管理」判定になることはないと思います。
僕の解釈した文の最も大きなミスは、「誰が行うのか」という基点の人格が抜けていたことでした。
「管理」は原則として「ゲームマスターがプレイヤーに対して行うもの」である以上、プレイヤーの行動が「管理」判定になる、ということは無いわけです。このケースの場合、ゲームマスターがこれを容認するのであれば、少なくともその場では「自由」判定だと思います。ただ、その前から既にフェイズプロセッションで進行しているのであれば、総体としては「管理」判定になりそうですね。
*天羅
> スタート地点は管理されていても、ゴール地点を定めないような運用のつもりだったんです。
確実とは言えませんが、たぶん「管理型/自由度:大」判定になると思います。
個人的には面白いゲームになりそうだなぁと思いますし、そこで対応力をつけえば「自由」型、「管理」型にこだわらずに遊べるユーザになれそうだと思います。
*「~すべき」論
> でも、この「べき」は、自由なプレイに際しては持ち込む
> べきではないとも思うんです。
まったく同感です。
この辺が「自由」型ゲームの現実的な難しさだと思います。
> 結局のところ、『自由なプレイにおける、みんなで楽しむ
> ために放棄すべき(したほうがいい)自由』の扱いが、
> 自由を自由でなくすかどうかが、(疑問、というか、ふに
> おちない・ひっかかる)ネックになるんです。(個人的には)
後ほどエントリでちゃんと整理して書く予定なんですが、この点については最終的には精神論になってしまうということがあります。現段階での予想なんですが、その「みんなで楽しむために放棄すべき自由」っていうのは「制限」に属するモノになるんじゃないかと。拡大解釈なんで、コレはコレでまた別の問題を孕んでるんですけどね。
> (もちろんこれをGM(他人)に言われて(止むを得ず)
> 放棄するなら管理だと思います。でも、自発的に、あるい
> は他人に言われても納得して放棄するは自由か管理か?)
ああ、それは「自由」判定になると思います。
>PS
>> 鏡氏の「自由」な遊びには抵触しないんだけど、僕の解釈Bには抵触しますね、これ。
>
> 揚げ足取りでゴメンナサイ!!
> ホント、嫌な解釈だって自覚はあるんですよ・・・
どうかお気になさらないよう。
むしろこういうミスは、指摘してもらえた方が助かります。
どうにも不器用なものでナンですが、感謝してます(^^