しかも年内にと慌てて書いたのでマトモに推敲する時間も取れませんでした。
ですから読むのはよっぽど時間があって、退屈な語りを聞かされても怒らないくらい余裕のあるときにお願いします
【娯楽の核】という概念を提唱した話があります。
たとえばカイヨワの語ったような「遊び」の要素、それに戯れるだけで楽しむことができる【娯楽の核】があって、コスティキャンの〈意思決定〉は、その「遊び」をより“奥深く”するもの、【娯楽の核】を〈ゲーム〉にするものとして機能する。
ものすごく大雑把に書くと、そんな感じでしょうか。
これまで考えていたことをスマートに書かれていたので、おお、と感嘆してました。
が、ちょっとだけ気になったことが有ったので。
例えばサッカー(コンピューターゲームではなく、スポーツとしての)を想像してみると、サッカーボールを足で蹴るという行為そのものを楽しいと感じる。それが【娯楽の核】です。
この「サッカーボールを足で蹴るという行為そのものを楽しいと感じる。」という部分。
なんかちょっと引っかかったわけです。
【娯楽の核】は能動的な行為だけなのか? と。
重箱の隅を突付くようで、あまりお行儀がよくありませんね。スミマセン。
だが書く。
遊びに含まれる受動(感受)性
「遊び」というものには能動的な性質のほかに、受動的な性質も含まれているかと思います。
ちょうどカイヨワの話が出ているので、まずはカイヨワの「遊び」から考えてみます。
カイヨワの例から
カイヨワは「遊び」の傾向について、アゴン(競争)、アレア(偶然)、ミミクリ(模擬)、イリンクス(眩暈)という四つの分類をしています。
これらはどれも、受動的な要素が含まれてるんじゃ無いかと思うんですね。
順序が前後しますが、アレア(偶然)について考えてみます。
アレアに属する「遊び」の例として、ルーレットや富くじが挙げられています。大雑把にギャンブルと考えていいでしょう。これらアレアに分類されるギャンブルという「遊び」の中で、遊ぶ人が能動的に行っていることは「賭けること」です。
でも、ただ「賭ける」だけでアレア(偶然)の「遊び」になるのか? それが楽しいのか? というと、ちょっと違う気がします。
ギャンブルとは「賭ける」という行為と、それにまつわる様々な「未来への想像」との両輪が核となり、「将来もたらされる結果」によって終わります。
「ギャンブル」を「遊び」たらしめるのは、実は「賭けること」に加えて「結果を反映されること」も含まれているかと思います。前者は能動的ですが、後者は受動的なものです。
次、アゴン(競争)はもっとも単純で、例示されているビー玉遊び、サッカー、チェス、ともに勝ち負けや成功/失敗のはっきりした「遊び」です。
これはより〈ゲーム〉に近いものですが、極限までシンプルに突き詰めればビー玉を動かす、ボールを蹴る、コマを動かす、といった行為と、それによってビー玉がどんな動きをしたか、ボールがどう転がったか、盤上がどう変わったか、などの結果が“もたらされる”という受動的な要素と合わせての楽しい、と感じるものではないかと思います。
また、イリンクス(眩暈)の中の「ジェットコースター」という「遊び」は、遊ぶ人が能動的に行うことは「ジェットコースターに乗る」ことだけです。それだけで楽しめるのはジェットコースターが動き、その人に眩暈が“もたらされる”ためでしょう。
これもやはり、受動的な要素を強く含んでいるかと思います。
最後はいささか詭弁じみた――あるいは魔術的な――話になりますが、ミミクリ(模擬)についても、たとえば「ハムレットを演じて遊ぶ」という行為の楽しさは「なりきる」ということですが、これはやはり能動としての「演じる」ことによって、徐々に演じている対象そのものになった気分が“もたらされる”、という受動的な性質があるんじゃないか? と考えています。
形から入る、というやつです。
そんな感じで多くの「遊び」の中にある「楽しさ」には、すべからく遊ぶ人が“もたらされる何か”を受け入れる性質――感受性――があるんじゃないかと考えたわけです。
赤ちゃんとの遊びから
まあカイヨワの例では、あくまでカイヨワの定義に沿った話にしかならないので、もうちょっと身近なところからネタを持ってくることにしましょう。
たとえば、赤ちゃんとの「遊び」。
赤ちゃんの遊びを見ていると、たとえばそれは本当に「遊び」と言えるのか? というような物事まで彼らは楽しんでいるように見えます。
赤ちゃんに「いないいないばぁ」をやると、キャッキャと楽しそうに反応します。あれは最初は完全に受動的なものなんですが、彼らは楽しそうに手を叩いて笑ったりします。[1]
赤ちゃんには自分で出来ることは極端に限られています。
となると彼らは【娯楽の核】に触れることが出来ないのか? というと、そうでもありません。能動的な行動力が無くても、外的な「変化」――たとえば大人が「いないいないばぁ」をする――を知覚して「楽しい」と感じているようですし。
大人が「いないいないばぁ」をすれば、赤ちゃんはそれに反応を示します。笑ったり、声をあげたり、手を叩いたり。そうすると大人はそれを「赤ちゃんが喜んでいる」と認識してもう一度「いないいないばぁ」をします。で、また赤ん坊は反応する。
これを繰り返すことで、赤ん坊は「手を叩いて喜ぶと、相手はもう一度『いないいないばぁ』をする」ということを学習します。あるいは「不機嫌そうにしていると、相手は『いないいないばぁ』をする」という学習もあるでしょう。そうした学習を使って、今度は赤ん坊の方から能動的に大人に働きかけて、またそれの成功を楽しんだりして。
そう考えると彼らも大人たちが「反応してるだけ」と考えていることを、まあ自覚的なものというより反射的なものなんでしょうが、あるいは能動的に行っているのかもしれません。
いささか詭弁くさいと自分でも思うんですが、一応これも能動だけでなく、“もたらされる何か”を感受することで「楽しさ」が成立してる実例になるんじゃないかとか。
【娯楽の核】とは「操作」と「変化」
そんな具合に、人が「楽しい」「遊び」と認識する事柄には、能動的なものと受動的なものがあると考えています。それらを【娯楽の核】と呼ぶのであれば、それをもっと突き詰めていくと、能動的な行為――すなわち「操作」――と、受動的な知覚――すなわち「変化」(または「変化の知覚」)――という二つの要素によって構成されているのではないかと考えたわけです。
子供の頃、なんでもない化学実験を「楽しい」と感じたことはありませんか?
マグネシウムリボンがものすごい光を放って燃えるとか、それが予め分かっていたとしても、実際に目の当たりにしたときの感動というのはちょっと別格だったんじゃないかと。
たとえば米村でんじろう先生のサイエンスショーに「おおー」と感嘆したり、自分でもやってみたいと思ったり、なんてのもアリです。
「遊び」に含まれる「楽しさ」とは、そうした「操作」と「変化」にあるのだと思います。
何かを「楽しい」と感じること、その【娯楽の核】には、「変化」を感受するだけのものと、「操作」し「変化」を知覚するものの二種類があるのではないか? と考えたわけです。
本ブログでは便宜上、「変化」するものを感受するだけの、一方通行の娯楽を【観賞】、能動的に「操作」することで「変化」に関わることができる、双方向性の娯楽を【遊戯】と分類してみることにします。
なお、【遊戯】における「変化」は、特に「反応」と呼びます。
もっとも「反応」の伴わない「操作」というものは無い(「反応」がないのであれば「操作」できていない事になる)わけで、実際には【娯楽の核】のたとえ話の中では省略されていたのではないかと思ったんですが、ここはちょっと省略しないで欲しいぞと思ったんで、こんな長いエントリを立ててみた次第です。
その理由はひとつ。
コスティキャンの嘘を、浮き彫りにするためです。
コスティキャンの嘘
まあ「嘘」と言えるほどのことではないんですが、これからゲームを作ろうと考えている人たちをミスリードしてしまいかねない文が、コスティキャンのゲーム論の中に混じっています。
それは以下の部分です。
インタラクティブ性がそんなに重要だと思うなら、電灯のスイッチを考えてみるとよい。スイッチを上げると電灯がつく。スイッチを下げると電灯が消える。おお、インタラクティブだ。しかし、これが面白いかね。
全てのゲームはインタラクティブである。すなわち、ゲームの状況はプレーヤーの行動によって変わってゆく。もし、そうでないなら、それはゲームでなくてパズルだろう。
しかし、だからどうだと言うのだ。インタラクティブ性それ自体は何の価値もない。インタラクションが意味を持つためには、「目標」がなければならないのだ。
スイッチを上げると電灯がつき、スイッチを下げると電灯が消える。
これ、面白いんですよ。
最初のうちは。
小さい子供が初めて来た家なんかで、よくスイッチを付けたり消したりする光景ってあるじゃないですか。起こる現象は電灯が付いたり消えたりするダケです。でも面白がって何度もやるんですよね。それがツマラナイと思うのは、何度もやることで新鮮さが薄れていき、面白いと思う感性が麻痺し、あるいは摩滅し……要するに「飽きた」ダケのことだろうと思います。
もちろん電灯を付けたり消したりすることによって、周囲の人間がなんらかの反応を返すことが面白いのかもしれません。でもそれも実は行動に対して反応がある、インタラクティブな構造です。それは面白いことだと思います。
実際、古来よりこのインタラクティブ性を【娯楽の核】として〈ゲーム〉が創出されてきました。営々と受け継がれてきた囲碁・将棋・チェスなどのゲームの楽しさに、「対局」という要素が無いってコトは無いでしょう。
「これからはインタラクティブ性の時代だ」という言葉が啓蒙的にズレきっていることには異論ありません。何しろ人々は有史以来ずっとインタラクティブ性を取り入れて、様々な〈ゲーム〉を遊んでいたのですから「これから」もへったくれもない。
ですが、だからといってインタラクティブ性そのものを無価値だと断じてしまうのは、ちょっと過剰反応ではないかとも思えます。それが【娯楽の核】としてのインタラクティブ性を過剰に軽視してしまうような悪影響を及ぼしてしまった場合、新しいゲームを発見することが今より難しくなってしまうことも懸念されますし。
では最後に、インタラクティブ性をどのように加工すれば〈ゲーム〉になるのか? という点について【娯楽の核】に立ち戻り、ひとまずこのエントリは終わりにしたいと思います。(いやまあ【娯楽の核】の話はシリーズにしようと思ってるんですが)
【娯楽の核】を〈ゲーム〉に変える
さて、【娯楽の核】の話に戻って。
冒頭でひっかかった部分の、その先に進んでみたいと思います。
しかしそれだけでは娯楽としては長続きしない。そこに何らかの課題―例えば、ゴールポストにボールを蹴り込む―を持ち込んだ時、はじめて【ゲーム】が立ち上る。そこでボールをゴールに蹴り込むという意思を持つ事によって、失敗と成功という結果が認識される。それが、根源的な意味での【ゲーム】なのではないか、と。
〈ゲーム〉に見られる成功や失敗というのは、“ある決まりごとに即して判定された結果”のことです。この例の場合、「ゴールポストにボールを蹴り込む」という課題が“ある決まりごと”に当たります。
では課題を持ち込まなければ「ボールを蹴る」という行為に結果は無いのか? というと、そういうわけでもありません。前述の通り「ボールが転がる」という結果があります。これら「操作」と「反応」がセットになって、【娯楽の核】になるのだろうと思うわけです。
未来私考のプロセスを、ちょっとだけ視点をズラして考えてみると、〈ゲーム〉が立ち上るプロセスは以下のようにも考えられるのではないでしょうか。
課題を導入し、それに即して判定を行うことで、「反応」は成功や失敗などといった“特別な価値”を持つようになります。
そして、そうした“特別な価値”のうちのどれかを目標にするかを自ら選び――つまり〈意志決定〉を行い――実際に「操作」を行う。
それが〈ゲーム〉なのではないか。
まとめ。
大雑把に本エントリのまとめです。
ぶっちゃけコレだけ読めば十分のような気も(汗)
【娯楽の核】の分類(【娯楽の核子】の定義)
【娯楽の核】には能動的な「操作」だけではなく、「変化」の感受という受動的な要素もあります。
観賞と遊戯
戯れるだけで楽しめる娯楽には、「変化」を感受するだけの単方向的な【観賞】と、「操作」することで「変化」(特にコレを「反応」と呼ぶ)を楽しむ双方向的な【遊戯】があります。
【娯楽の核】をゲームにする方法
僕は【娯楽の核】を〈ゲーム〉にするプロセスは、「操作」に〈意思決定〉を、「反応」に“特別な価値”を、それぞれ与えることだろうと考えています。
仮定。
そしてそれを浮き彫りにするのが「ルール」や「課題」の役割ではないか?
用語定義集
- 【娯楽の核】
- 意思決定とは無関係にそれに戯れるだけで快感を感じるもの。(出典:序論:ゲームとは何か コスティキャンのゲーム論を越えて – 未来私考)
- 「操作」
- 【娯楽の核】のうち、遊ぶ人自身が行う能動的な要素。
- 「変化」
- 【娯楽の核】のうち、遊ぶ人が感受する受動的な要素。
- 「反応」
- 【娯楽の核】のうち、特に「操作」によってもたらされる「変化」。
- 【娯楽の核子】
- 【娯楽の核】を構成する「操作」と「変化/反応」という二つの要素の総称。[2]
- 【観賞】
- 娯楽のうち、特に「変化」の感受のみに特化した単方向性の娯楽。
- 【遊戯】
- 娯楽のうち、「操作」による「変化」を楽しむ双方向性の娯楽。
パイディアとルドゥス
またぞろカイヨワを引っ張ってきますが、『遊びと人間』による「遊び」の二つの極に分類すれば、【娯楽の核】とは「パイディア = 気晴らし、騒ぎ、即興、無邪気な発散、統制されていない気まぐれな遊び」であり、それを〈ゲーム〉に変換する(ゲームを立ち上らせる)ということは、「ルドゥス = 恣意的でことさら窮屈な規約にそれを従わせ、一そう面倒な障害をもうけてパイディアを縛ることで、一そうの努力、忍耐、技、器用がなければ目標が到達できない遊び」へ傾斜させる、ということでしょうか。
この基準で考えると、「良くできたゲーム」とはパイディアとルドゥスのバランスがとれた「遊び」ということになるんじゃないか? とか。
更新履歴
- 2008/12/31 :
- 「結論。」の部分を「まとめ」として編集。 (10:54)
用語定義集を追加。 (11:11)
どうもです。長文申し訳ありません^^;
本論とはちょっとずれて受動的楽しみ方についてですが、赤ん坊が「いないないばあ」で喜ぶのは、実体を連続体として認識する能力がまだ形成されていないので、
・顔を隠すと、顔を隠した相手が本当に消えてしまったと認識する
・顔を見せると本当に何もないところから相手が出現したと認識する
というギャップがあって楽しいと感じられるというところがあり、それはスイッチをON/OFFすることで電灯が点いたり消えたりするのが最初は面白いという話と関連があるように思います。
あと、受動的に楽しむという状況にも、「いないないばあ」のからくりが理解できずに面白がっている状況と、理解できるようになっても面白がる状況というような、新しい刺激を受けることを楽しむ状況と、すでにわかっていることが期待通りに返ってくることを楽しむという2つのパターンがあって、それは赤ん坊が、(一般的に)父親に対しては新しい刺激を受けることを喜んで、母親に対しては安心感が得られることを喜ぶという、大まかに2つのパターンを楽しむというのと呼応していると思います。
で、そこんところはTRPGでの「(PC情報とPL情報をなるべく同期させて)疑似体験として楽しむ」のと「(PL情報としてはわかっていながら)メタに遊ぶことを楽しむ」のとも対応していると思います。
それでは
本年最後のレスになります。
今年一年、たくさんのコメントを頂けて感謝感激であります。
ありがとうございました。
……よければ来年も宜しくお願いします(笑)
@紙魚砂さん
おお、ガッツリ長文コメントありがとうございます。
> 本論とはちょっとずれて受動的楽しみ方についてですが、赤ん坊が
> 「いないないばあ」で喜ぶのは、
(中略)
> 最初は面白いという話と関連があるように思います。
同感です。
「いないいないばぁ」にせよ「スイッチのON/OFF」にせよ、「消える/表れる」という“視覚情報の変化”があって、これが大きな【娯楽の核】になっていると思います。
スイッチのON/OFFに関しては、触覚の面白味(たとえば“上げ下げ”するスイッチには一定のところまである抵抗が、突然無くなって反対側へ振れる)なんかもあるので、それだけではないんですが。
> あと、受動的に楽しむという状況にも、
(中略)
> 新しい刺激を受けることを楽しむ状況と、すでにわかっていることが
> 期待通りに返ってくることを楽しむという2つのパターンがあって、
ですね。
この辺がゲーム作りの難しさでもあって、ゲームの「斬新さ」と「安心感」のボーダーを見極めて、どの層のユーザをターゲットに訴求するのかを理解しておかないと、「斬新過ぎて理解されないゲーム」や「二番煎じすぎて叩かれまくるゲーム」になってしまうという(苦笑)
> で、そこんところはTRPGでの「(PC情報とPL情報をなるべく同期
> させて)疑似体験として楽しむ」のと「(PL情報としてはわかって
> いながら)メタに遊ぶことを楽しむ」のとも対応していると思います。
先の先で書こうとしてた話が出ちゃった(笑)